歴史あるなら漬
伝統の味わいを長く継承していきます。

忠勇なら漬の発祥

昔の日本酒の製造工程

昔の日本酒の製造工程

忠勇は享保年間、灘の地に造り酒屋として誕生しました。
「忠勇」は楠木正成(大楠公)の「忠節」と「武勇」の精神に感銘を受け、その精神から一文字ずつとり商号にしたといいます。
当時の灘では、六甲山系の急流を利用した水車精米や丹波杜氏による寒造りの仕込み技術の向上、また輸送に便利な立地条件などにより、海岸沿いに多くの酒蔵が立ち並び急速に発展していました。その後、酒造りには最適といわれる宮水の発見、酒造米の改良等により、日本一の生産量を誇る酒どころとして躍進していきました。
酒粕を袋から取り出しています

酒粕を袋から取り出しています

戦後(昭和21年頃)、酒製造の副産物を利用した漬物事業を展開しました。自社の酒粕を利用し、本格的になら漬の製造を始めたのもこの頃です。
以前より、お世話になった方への贈答品として製造していたものが、好評を博し、のちに商品として販売するようになりました。

「なら漬」の語源

なら漬の歴史は古く、平城京の長屋王邸宅跡から見つかった木簡に「加須津毛(かすづけ)」と記されていたことからすでに奈良時代には献上物として使われていたと考えられています。また、平安時代の宮中の儀式や年中行事を記した文献「延喜式」の中でも、宴に使われた漬物として「糟漬」の記述が残されています。
「粕漬」から現在の「なら漬」と呼ばれるようになったいわれは諸説あります。いにしえより酒造りが盛んだった奈良で造られていた粕漬が特に評判が良く、「奈良の粕漬」を「奈良漬」と呼ぶようになった説。
慶長年間の大阪夏の陣に「あしひの杜」に徳川家康が陣取っていた際、奈良の漢方医「糸屋宗仙」が献上した「粕漬」が大変喜ばれ、「奈良漬」の名を賜ったとも言われています。また別説では、関西の酒どころとして有名な「灘」では多くの酒造会社が自社の酒粕を利用して「粕漬」を造り始め、「灘漬(なだづけ)」と呼んでいたものがなまって「なら漬」となったとされる説もあります。

外部リンクもっと漬物について知りたい

うなぎとなら漬の相性が良いのはなぜ?
うなぎとなら漬の相性が良いのはなぜ?
「うなぎは腎水を増し、精気を強くし、食すれば夏負けすることなし」と江戸時代に平賀源内が引き札に書いたことから広まったといわれる「土用うなぎ」。事実、うなぎにはビタミンA、B1、B2、D、Eが多く含まれ、滋養強壮には良いといわれています。

薬学者であった平賀源内はそこに目をつけ、「夏負けしやすい土用の丑の時期こそスタミナ食であるうなぎを食し、体力を蓄えなければならない」と言ったといわれており、また当時の言い伝え「土用の丑の日には、うり、うどん、梅干しなど“う”のつくものを食すると良い」にかけたものといわれています。

うなぎの蒲焼となら漬の取り合わせも古く、江戸時代には築地界隈で「江戸前」と書かれた看板はうなぎ料理屋を指していたといいます。その頃から、なら漬はうなぎと相性が良いといわれ高級な食材の取り合わせのひとつであったようです。

なら漬はその酒精が脂分を分解するため、
1.うなぎの口直しには最適なこと
2.なら漬に使われる“うり”は前途の通り昔から夏に食すれば良いといわれていたこと
から「土用丑にはうなぎとなら漬」と言われるようになりました。

トップシェアを誇るなら漬は徳島から

昔の徳島工場での製造工程

昔の徳島工場での製造工程

なら漬用の瓜は、昔は関西では京都や大阪、関東では埼玉等で作られていたようです。徳島県も昔から瓜の産地として名高く、皮が薄く肉厚でなら漬には最適といわれている“越瓜(しろうり)”が栽培されていました。そこで、良質な瓜を安定して確保するため、忠勇では、徳島の農家と瓜の契約栽培を開始しました。また、酒粕も神戸から船を使えば運搬も便利であることから、昭和34年頃に徳島工場を新設し、なら漬の製造の拠点を移管しました。
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